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2007年11月07日

すえは博士か大臣といわれた!?少年時代

(株)ヌースコーポレーション代表取締役
半田広宣さん

 波動や癒しという言葉を、一般のメディアが取り上げるようになった今日、その草分けともいえるのが、ヌースエネルギーの商品たち。10年を超える実績とさらに進化を続けるその研究開発者、半田広宣さんとはどんな人?

■すえは博士か大臣といわれた!?少年時代
−○○理論と聞くと、それだけで身構えてしまう人も多いのですが、ヌース理論の研究者である半田さんは、どのような生い立ちで、ここまで来られたのですか?

半田
自分でいうのも何なのですが、子どもの頃から小学、中学校ぐらいまでは、ホント優等生だったんですよ。あまり勉強はしなかったけれど、成績はいつも上位のほうだったんです。
 それがある意味、世間的にいうと横道にそれちゃった。ビートルズの音楽にはまっちゃったのが、遠因かな?と思います。当時は音楽に目覚め、ギターを弾き始めた少年がとても多かったですよ。僕もそのなかのひとりだった。彼らがみんな脱線したわけじゃありませんけどね(笑い)。
 同時に、フォークやロックという音楽も、ベトナム戦争や安保などの時代背景の影響を、思想的に強く受けていました。このままの都市文明一本槍では、人類はダメになってしまうというカウンターカルチャーの影響が音楽の表現にも色濃く表れていました。僕も、もう勉強なんかそっちのけですよ。
 高校は、それまで優等生だった勢いみたいなものでなんとか卒業できましたけど、成績はあまりパッとしませんでした。それでも、鼻息は荒いもんですよ。ネクタイしめたサラリーマンなんかになるものかってね。これもカウンターカルチャーの影響だった。

■ミュージシャンとしての第一歩が挫折に
−それで、何をやろうと?

半田
ひとつは音楽だったんですけど、そのためには東京に出て行かなきゃはじまらないと信じていましたから、あきらめていたんです。結局、一浪してグラフィックデザインを学べる地元の大学を受けて合格しました。
 ところが、父が自分が勧める大学に入るんだったら、東京に行かせてやってもいいと突然言い出した。もうふたつ返事でOKですよ。それで、東京の大学に入学したんです。
 でも、動機が動機でしょ。勉強のためなんかに、学校へいくはずないじゃないですか。軽音楽系統のサークルに入って、その活動だけ。気がつけば、そのサークルのぬしみたいになっちゃってた(笑い)。
 それでも、都内のライブハウスで演奏したり、大手の音楽会社のコンテストで、決勝まで進んだりもしました。そして、22歳のときにはいよいよプロデビューというところまでいったんです。

−でも、いまミュージシャンじゃありませんよね。

半田
そう。2人のグループだったんだけど、寸前で仲たがい。分裂、解散、デビュー取り消し。24歳のときでした。それから3〜4年、音楽の分野でいろいろやってみたけど、鳴かず飛ばず、いや〜落ち込みましたよ。デビューしかかった頃、「いよいよ、俺もメジャーだぜ」なんて吹いていましたから、回りの冷たい視線も感じるし、自分もなんだか「ダメ人間」になっていくんじゃないかってね。
 そのドン底の中で、昔のカウンターカルチャーやビートルズやロックの芯の部分、魂の部分に触れられたような気がしたんです。
 それからです。宇宙、人間、意識、魂なんかに関連した『ニューサイエンス』という分野の本を猛烈な勢いで読みはじめました。そして、一発あててやろうとか、スターになってやる、というような欲がだんだん消えていきました。
 と同時に、どんどん精神的な世界にのめり込んでいった時期でもありましたね。しかし、これは結果的に、世間や社会からの逃避でもありました。オレは真実を求めている−ってな感じで、自分だけの世界では盛り上がっているんですが、実はどんどん孤独になっていったわけです。そして、精神までもボロボロに病んでいったんです。

■精神世界の危うい深みにはまり、立ち直る
−けっこう、危うかった?

半田
ええ、もうどうしようもないという感じでしたね。そのとき、福岡の母が大病にかかった。末期のガンで、もう余命いくばくもないから、帰って一緒に暮らしてやれと、父は僕に催促しました。
 そこで、郷里に引き上げるわけですが、内心では東京から撤退するいい理由づけにしちゃったんですね。東京でうまくいかなかったから、といわずに済んだわけです。
 実家では、すでに兄が高次元エネルギーの研究と商品開発を行ってしました。超常現象のようなこともたくさん起こっていました。なんと末期で死を待つのみといわれた母のガンまでもが、退縮して手術までこぎつけ治ってしまったんです。
 このとき起こった一連の出来事は、本当に衝撃でした。そして、僕は音楽からこの新エネルギーへと一気に夢を乗り換えていったんです。もう、ほとんど病気ですよ。一時は、本当におかしくなってしまいました。
 やがて立ち直ったのですが、いい経験でした。このとき、『この世界の現実の裏側には、より深い現実がある』という現在のヌース理論の原点に自分自身の体験で気づくことができたのです。

−それから、いよいよヌース理論の研究に入っていったんですね。

半田
はい、93年に独立して、現在の会社を設立しました。僕は、新エネルギーのビジネスには新たな世界のための理念が伴わなければ意味がない、と考えたんです。
 僕がヌースグッズへ持たせた理念とは、『人間の霊性の進化にかかわる』というものでした。というのも、僕が以前、おかしくなったその理由は、「俺が救済する」とか「俺は神だ」とか、誇大妄想的なものだったんです。その徹はふみたくはなかった。
 だから、『世の中にどう役に立つか』をあえて優先させないで、自分自身がとことん納得できるものを作っていくことを第一義としたのです。それで、結果的に多くの人々によい商品が届けられればいいじゃないか、そう考えたわけです。

■奇跡は、まず家族のなかから起こり始めた
−その後、現在の商品への道のりを?

半田
自分の会社を設立する前、兄のもとで僕はすでに独立採算の事業部のような形で、活動しはじめていたんです。そんなとき、今度は父が、一緒に行った京都の旅行先で脳幹出血のため倒れてしまった。脳幹ですから、手術の施しようもない。早く親族の方を呼んで、最期の別れになりますから、という状態でした。
 そのとき、たまたま自分で作ったビーズ200粒パットを持ち歩いていたんです。お医者さんに「これ御守ですけど、使っていいですか」って聞くと、なんでも心残りのないように好きにしてください、と言われました。そこで、父の頭をパット5〜6枚でグルグル巻きにしたんです。症状が安定したので、博多の病院へ搬送して3ヶ月。なんと、その父が退院することができたのです。まさに奇跡的な復活でした。
 ヌースを広めていけるという確信がそのとき生まれました。この時点が、僕が人生の再スタートした原点だったといえるかもしれません。
 ヌースグッズは、当初このビーズほか全部で5アイテムでスタートし、現在では11アイテムあります。お客様のニーズとヌースエネルギーを、いろいろな用途別に開発していった結果です。
 ベルトで腰痛が治った。ネックレスで肩こりしなくなった。化粧品でシミが消えた。シャンプーで薄毛が濃くなった。そのほか、たくさんの声をいただいて、本当にやってきた甲斐があったなあと思っています。プロ・アマ問わず、多くのスポーツ選手の間でも愛用されたりもしていますす。
 目に見えないエネルギー商品ですので、日々、熱意と誠意での商品説明が欠かせません。また、大量生産、大量消費型の商品ではないので、コストダウンにはいつも苦労します。でも、l最終的にヌースの理念が、商品を通してたくさんの人々に伝わってくれれば、こんなに嬉しいことはありません。

雑誌「anemone」2003年4月号より抜粋

投稿者 right : 2007年11月07日 15:32

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