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2007年11月07日

都会っこで、秘書として働いていた典子さんの転機

NGOグリーンハート代表
吉野典子さん

 発展途上国の素朴な製品に、心惹かれることはありませんか?どんな人たちが作り、どんな人がもってきてくれているのでしょうか。その人の輪には、いろいろな思いがあらわれています。その思いに私たちは心惹かれるのではないでしょうか。

■都会っこで、秘書として働いていた典子さんの転機
 日本で、ほとんどの人々がまだ有機無農薬農業というものに、関心を寄せていなかった20年ほど前のことです。長い間放置されていたミカン畑を開墾し、『朝やけ農場』(熊本)を旗揚げしたのが、今回登場の吉野典子さんとパートナーの晃さん。
 当時は、社会や行政の有機無農薬農業に対する認識度も低く、さまざまな困難があったと、夫婦は振り返ります。
 この『朝やけ農場』に拠点を置きながら同時に、92年から展開しているのが、典子さんが代表を務めるアマゾン・ジャングルクラブ/熱帯雨林研究会(NGOグリーンハート)です。
 アマゾン原産のコパイバ・マリマリ樹液製品をフェアトレード(搾取や不公平取引のない貿易)しながら、アマゾン森林内の採取者の自立支援と、小・中学校の建設運営支援をしています。
 今年2月から3月にかけて、アマゾンを訪ねたという典子さん。先進国文化が入り込んで、昔の未開地のイメージは年々薄くなりつつあるとはいえ、体力のある男性でも辟易とするジャングルに分け入る典子さんとは、どんな方なのでしょう。
 典子さんは、神奈川県横浜市で生まれた、いわば根っからの都会っこでした。大学を卒業すると、大手の電機メーカーの秘書として、スーツに身をつつみ、スマートにしかもバリバリと仕事をこなしていくタイプだったといいます。
 土日も関係ない秘書の仕事とはいえ、将来に何の憂いもない一流企業を飛び出したのは、就職から3年後のことでした。
「立て続けに近しい人たちが、事故や病気で突然亡くなったのです。皆20代30代の、ほんのついこの間まで元気にしていた人たちばかりでした。これだけ続くと哀しみという言葉ではありません。死の恐怖そのものでした。」
 そんな状況でも会社のタイムカードを押した途端、別人のようにニコーっと笑顔で明るく「おはようございまあーす」と言っていた、そんな時典子さんが出合った1冊の本のなかにあったのが、インドのガンガー(ガンジス河)のほとりで人々が手を合わせている写真でした。それは生死を自然な流れとして受け入れている人々の光景でした。
「このまま今、自分が死んでしまったら、自分の人生はこれでよかったといえるだろうか。いや違うと、はっきり判ったのです。区切りをつけて仕事をやめ、インドに行くことにしました。」

■仏陀の足跡を生誕地から入滅地まですべてたどる
 1年あまりの間、インド中心に、典子さんは心の旅を続けたといいます。
「ですから、急にアマゾンにたどり着いたわけじゃないんですよ。仏陀の生誕地から足跡をたどりました。当時、ブッタガヤの光明を得たといわれる菩提樹の周りには鉄縄門があったんです。
 その頃の私は、よほどの顔だったんでしょうね。身分の高そうなお坊さんが、番兵に鉄の大きな鍵を持ってこさせ、わざわざ開けてくれたんです。それもマリーゴールドの花びらと共に。このお坊さんの心が、それからのインドの旅、私を変えてくれました。
 ネパールの山々にもでかけ、1ヶ月間歩いていました。山を登っていくと、もう途中から引き返せないんです。あんな苦しかった道を越えてやっときたのに、また戻るのかと思ったら、前に行くしか、進むしかないんです。
 自分の呼吸の音だけがお供でした。完全にクリーニングされるのか、雲ひとつない青空に吸い込まれそうな山頂を見たら、自分が消えてしまいそうで、勝手に手が合わさっていました。
 他にもインド滞在中は、街中でスカウトされて映画に出演したり、日本の日常からかけ離れた経験をしました。
 そろそろ日本に帰ろうかと思うとき、いつも考えました。もう、同じことの繰り返しはしたくないし、出来ない。その頃ちょうど大学の時の友人がニューヨークに語学研修に行くというので、チャンスとばかりに飛びつきました。親泣かせでしたが感謝しています。」
 そして、典子さんはアメリカで現在の伴侶である晃さんと出会うことになりました。
 結構、ドラマチックな人生じゃないですか、と問いかけると「偶然よ。でもその偶然を後で線にしてたどってみると、お互いそうなるようにさせているのよね。」と、典子さんはカラカラと笑いながら答えてくれました。

■食の安全は、生命そのものの安全には優先できない
 こうしてスタートしたのが、『朝やけ農場』だったのです。3人の男の子を育てながら、安全な食を追及する先駆者として10年が経とうとしていました。功績が注目されて、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された『地球サミット』で『食の安全コンフェランス(分科会)』を主催したのは92年のことでした。
「食の安全というテーマは、オーガニック農業を実践している私たちにとって、まさに中心問題でした。そのコンフェランスにアマゾンの人も参加したのです。」
 典子さんは、その時の気持ちを語ってくれました。
 アマゾンの人は、「森林はどんどんなくなり、食の安全どころか、私たち森に住む者は、生活・生命そのものが危機状態にあるのです。あなたがた先進国の人たちはいったい今何を話し合っているのですか。これをどう考えているのですか。」といったそうです。
 これが、典子さん夫婦とアマゾンの森林、そしてアマゾンの人々との最初の出会いでした。「じゃあ、私たちに何ができるのか。」そうして典子さんは、考えたあげく3年間を家族でブラジル・アマゾンの生活に費やしました。

■アマゾンの聖木コパイバが命を救ってくれた
 「日本でも電気もない環境で、開墾からはじめて農地を耕すことをしていましたから、気力・体力には自信があったんです。でもアマゾンではとことん落ち込みました。自分がどんどん剥がれていく感じがしました。はじめの頃は重荷を捨てた感じで爽快だったけれど、それが時と共に深くまで来ると、もうカンベンしてください。と、自我が出口を探すようで、あれやこれや頭の中はパニック状態。それに丸めこまれネガティブになれば、確実に病気やケガをしやすくなるんです。
 自分をごまかしきれない深い森の中だから、その反応が早いのなんのって。中心が定まっていないと、その日一日の目まぐるしさに、体力が追いつかなくなるくらい。一度は何でこんな所にいるんだ、もう嫌だ帰ろう。と決心し荷物をまとめたら、なぜかその日に限って既にカヌーが出ていて、泣く泣く荷物を引っ張りながら戻った時もあります。3ヶ月を過ぎた頃には、完全に寝っぱなしになり、歩くことさえできなくなり、村の人の心とコパイバの樹液で、助かったんです。
 後であれは何だ?と聞いたら、l私たちアマゾンの森の聖木というではないですか。現地にも医師はいます。定期的に人が変わるけれど、その医師もコパイバを持ってくるのです。
 今こうして日本にいるけれど、あの時コパイバがなかったら、今ごろどうなっていたでしょうか。
 よく人から、なぜコパイバを扱いはじめたのかを聞かれますが、もとはといえばこのときのコパイバへの感謝と村の人たちへの感謝とがきっかけでした。はじめはコーラ瓶に入れて自分達自身のために持って帰ってきたのですが、それが人伝えで広まり、結果として仕事になってしまったのです。最初は、仕事にしようなんてぜんぜん考えてもいなかったんです。」
 典子さんは、社会に出てから今日に至るまで、人生を計画して生きてきたわけではない、といいます。
「だって明日にでさえ、何が起こるかわからないじゃないですか。まわりのことに左右され、揺れ動いていたら人生なんてあっという間。自分自身とのかくれんぼに、時間を費やしているのは、無駄なことだと思うんです。
 本当に開墾をしてきてよかったと思っています。開墾って自分自身を掘って見つめていく繰り返しだから。私なんて気がついたら、地球の裏のアマゾンまで行ってしまったのよね。」典子さんは笑いながら語ってくれました。
 アマゾンの森の中で生活をすること自体が、人と人との心と心の重ね合いだといいます。しかし、それは社会的な枠組みのなかでのおつきあいというのではなく、一体感のある自然な心なのではないでしょうか。
「自分たちは無学で字も読み書きできないから、せめて子供たちには、教育を受けさせてやりたい。そして神から受け継いだこの森に住み続けたい。」
 この言葉を聞いてはじめた、小・中学校運営支援はすでに7年になります。
 今回の旅の途中、身長180cmもある凛々しい男性が典子さんに近寄ってきました。彼は、「高校資格試験をカヌーに乗って受けに行き、見事合格した。大学では環境の勉強をしたい。」といってきたそうです。
 よく見ると、その青年は7年前に会っていた子どもで当時のおもかげを残していました。典子さんは人前にもかかわらずその大きな男性の頭をなでてしまったそうです。
「一人ひとりの子どもが学べることによって自分に可能性を見つけ、希望をもてることを知り、ある子は森から育って羽ばたく子もいるでしょう。
 だけどその子が森を振り返るその時の思い、気持ちが未来の世代や、アマゾンの森をはぐくむのだと思います。」

■コパイバの販売収益金で学校の支援と運営に協力
 森に住む所を失う。または現実の失望から都会にでても、読み書きができず安定する職もなく舞い戻っていた時代が、ゆっくりと変わりつつあるアマゾン。広大な森にとっては、ほんの小さな出来事かもしれません。しかし、『NGOグリーンハート』には、10年以上かけて築き上げてできた、互いの信頼関係の上でしか成り立たない活動基盤が確実に育っています。
「私たちの採取したコパイバ・マリマリが、ブラジルの州大学認定をもらえて、ほっとしています。きっと私がビジネスオンリーだったら、この道は開いてはくれなかったことでしょう。アマゾンの学校支援があってこそだと思います。
 でもそれは学校の子どもたちが開いてくれたことだ、と思っています。まだまだ支援は必要です。コパイバ・マリマリなどの販売収益金で、もっと広げていきたいんです。
 スコールの激しさで、ペンキの塗り替えも木材の補修も数多いし、ソーラーシステムのコンピュータなども数が足りません。すべきことは、これからもたくさんあるんです。
 アマゾンの森は、彼らにとっても、私たち人類にとってもかけがえのないものです。地球の氷河期にも埋もれずに、地球の歴史そのものがこの森にたたみ込まれています。
 またコパイバだけでなく、知られざる植物がたくさんあり、それらは私たちを助け、守ってくれる。人も自然の一部だからこそ、私たち世代は壊さず守り、次の世代の子どもたちに渡すべきです。」と典子さん。
 典子さんは、アマゾンの森で、サムシング・グレートの存在を確信する神秘体験をした、といいます。
 それは、四方八方ふさがりでどうしようもないとき、ふと空に向かって天に「おまかせします」と伝えたときのことだったとか。
 今年を、アマゾン支援の新たなスタートの年にしようと、典子さんたちは今も頑張りつづけています。

雑誌「anemone」2003年6月号より抜粋

投稿者 right : 2007年11月07日 15:35

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