« 2007年5月 | メイン | 2007年9月 »

2007年7月 1日

デイ・アフター・トゥモロー

私たちは

「一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?」

「ヌースDEシネマ」は話題の映画をヌース理論の提唱者 半田広宣氏にヌース理論をベースに、独自の視点で解説していただきます。

第三回目は『デイ・アフター・トゥモロー』です。

デイ・アフター・トゥモロー

【作品紹介】大ヒット作『インデペンデス・デイ』の監督ローランド・エメリッヒ監督が描く、自然災害による地球の危機を描く衝撃のパニック・エンターテインメント。主演の古代気象学者に『エデンより彼方に』のデニス・クエイド。その息子役に人気上昇中の若手人気俳優ジェイク・ギレンホール。また、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのイアン・ホルムも脇を固める。最新SFXとセットの融合が作りだすニューヨークを襲う巨大津波や、北半球を覆い隠す氷河はリアリティあふれ迫力満点!(HPより)

【ストーリー紹介】
南極で研究を続ける古代気象学者ジャック・ホール教授は、南極の氷に巨大な亀裂を観測するなど調査データから、地球温暖化の影響からか、地球規模の自然危機を予感する。そして、その4か月後、東京で大きな氷の塊が降ってきたりインドで雪が降ってきたり各国で異常気象が発生し彼の嫌な予感は現実味を帯びてくる。 教授は、温暖化の影響で極地の氷が溶けだし海流の温度が急激に下がりはじめ、その影響で近い将来、約1万年前の氷河期が再びやってくるのではないかと推測する。国際会議などでその可能性を力説し、危機管理の徹底を促すのだが、会議の代表である副大統領は、経済の影響を考慮するとともに、バカげたその可能性を否定し続ける。そんな中、教授の一人息子がクイズの高校生大会が行われるニューヨークへ友人二人と旅立つ。教授の推測よりもはるかに早く北半球にある国々で、その前兆がはじまる。海面上昇による巨大な津波や気流変化による巨大な竜巻や雷雨や寒波・・・。そして、人間の力では成すすべが無い自然の猛威が、息子がいるニューヨークに襲い掛かる。巨大な津波が都市を飲み込み、一瞬にして全てを凍りつかせる巨大寒波が、息子たちに襲い掛かってくる。教授は、息子を救出するために、仲間とともに、凍りついたニューヨークに乗り込もうとする・・・・。

藤本
今回の作品は『デイ・アフター・トゥモロー』です。二年前に地球温暖化防止京都会議が開催され、気候変動に関する国際連合枠組条約の「京都議定書」が設定されました。それ以降、各国で注目を集めています。私たち人類の文化や文明が地球環境を害し、そしてその影響で、人類が滅亡する可能性があることは、色々なメディアで取り上げられ、よく理解できることだと思います。そして、その時期がもう目の前に迫っているとしたら、私たち人類に何ができるのでしょうか?この映画は、その問いかけをしていますよね。

半田
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』以降、環境問題に警鐘を打ち鳴らす本や映画は無数に出ているよね。地球温暖化の問題はその総決算のようなもので、数十年前から取沙汰されていた。しかし、世界の趨勢はやはりエコロジーよりエコノミーを優先しているようで、エコロジーさえもエコノミックな商品として取引されている。問題は政治的、経済的というより、個人個人の意識の問題だよね。

藤本
この映画では、経済優先主義の副大統領と人命優先主義の教授との対立で表現されています。副大統領は権力もあり現代の象徴で、映画の中では悪者扱いですよね。この映画を見た方は、ほとんど教授の意見に賛同されると思います。しかし、良く考えてみると、私たちの日常生活は、副大統領の立場を優先させてはいないでしょうか?半田さんの言われるように、個人個人の意識の現われが社会を動かしているとしたら、やはり副大統領の思考は、私たち個人個人の思考の象徴ですよね。

半田
その通りだと思うよ。環境問題が恐ろしいのは、問題が露呈したときにはもう時すでに遅し、って性質を持っているところだよね。だから、環境問題のような長期的展望を要する問題には、必ず予兆の段階で対処する必要があるんだ。ところが、人間ってのは予兆だけでは動かない。実際に危機感が極まらないと真剣に考えないんだ。例えば、地球温暖化ってのはもう確実に起こっていて、年々平均気温も上がって来ているし、僕の住んでる九州なんかはもう一昔前の東南アジアみたいな気候になってきている。これを予兆と見るか、すでに取り返しのつかない深刻な問題と見るか、ここで問題意識の大きな分岐路があるよね。実際のところは、予兆とさえ見てない人がほとんどなんだけど。

藤本
自然災害は、人類が介入できない問題として諦めている人が多いと思いますね。竜巻や台風・地震・寒波や熱波などは、自分たちの思考の表れだとどうしても、イメージすることができないですよね。思考がちゃんと繋がっていかないんです。良く考えると、自分たちが食べているモノや使っているモノが自然環境に多大なる影響を及ぼしているんだと気づくはずです。しかし、自分たちの利便性や生活の快適さを優先してしまう意識が根を張っているんです。この意識をどう変革させていけばいいのでしょうか?

半田
正直なところ、意識改革を草の根的なところから行なっていくのは難しいと思う。もちろん、必要なことではあるんだけどね。たとえば有機野菜を食べる事が有機農家を助けるということが分かっても、家計のやりくり上無理だと思っている主婦はたくさんいるよね。しかし多くの人が有機作物に価値をおけば、需要は増えて価格も落ちる。だから、やっぱり根本はお金の問題じゃないんだよね。価値観を変えることなんだ。でも、この価値観ってのが厄介でね。価値観は歴史や社会や教育や家族や個人それぞれのライフスタイルまで、それこそ地下茎のように多くの要素がもつれあって作り出されている。どれも無関係じゃないわけだよ。だから根本のところから改革することが必要だと思う。

藤本
意識の根本を変革するってことは、今までには無かった新しい価値観を生み出す事だと思うのですが、その意識の根本って言うのは、具体的にはどんなことなのでしょうか?


半田
まずは、宇宙即人間、人間即宇宙という見方をすること。これに尽きるね。僕らはあまりに科学的な世界観に影響されすぎていて、人間を宇宙の辺境の一惑星上で偶然進化してきた生物種の一つぐらいの見方しかしてない。環境問題にしたって、あくまで他の生物との共存共栄を訴えるのが精一杯のところだろ。ヌースの見方は全く違うんだよね。

藤本
自然に対する全く別の見方ができるということですね。

半田
うん。生物学的自然ではなくて、霊的自然という見方があると思うんだ。例えば、アフリカのドゴン族なんかは、「人間ひとりが死ぬとき自然界の全生物の一対が死ぬ」と考えている。もちろん、これは科学的に言えばナンセンスなんだけど、この考え方には自然に対する深い洞察が込められているんだ。つまり、人間は文字通り万物の霊長で、人間の霊性の中に植物的性質や動物的性質のすべてが存在していて、それを人間という種があたかも神のように統括しているという見方がある。ヌースの考え方もこれと大変よく似ていて、自然界の生物はすべて人間の思考形態や感情形態の現れと見るんだよね。ドゴン族風に言えばね。霊的な世界と物質的な世界は互いが鏡で映し合うような関係になっていて、思考形態は植物的なものとして、感情形態は動物的なものの生成の原型になっていると思うんだ。その意味で人間と自然は切っても切り離せない関係にある。例えば、害虫を駆除する考え方は、人間の想念の中から害を与える感情を駆逐するのと同じだし、人間が様々な生物を食するのは、人間の中に存在する霊長がさまざまな想念の産物を食するのと並行関係にあると考えるんだ。

藤本
確かに僕らは思考や感情を味わっていますよねぇ。苦い思い出とか、辛い経験とか。

半田
甘い誘惑とかもね(笑)。だから、単に食物連鎖の中だけの生態系をイメージするだけでなく、意識連鎖とでもいうのかな、人間世界の意識的な流動と生態系を重ね合わせて見るようなセンスが必要だね。

藤本
詩人の感性ですね。動物や植物・水や鉱物・雲や風などなど......。全てが人間の思考や感情などの想念と繋がっているということですよね。

半田
そうだね。例えばこんな話はどうかな。去年あたりからヨーロッパやアメリカでね、ミツバチが突然いなくなり始めたらしいんだ。アメリカの西海岸では何と一気に4割も消滅してしまったらしい。ミツバチは作物の受粉を取り持つ昆虫なので、アーモンドやいろいろな農産物なんかに莫大な損害を与えるのではないかと危惧されているんだけど、一体、ミツバチの消滅は人間の心に置き換えると、何を意味しているんだろう?なんて、イマジネーションが湧いてくるでしょ。

藤本
ええ、人間の心の中の花や作物やミツバチって何だろうなって、必然的に考えてしまいますよね。

半田
こうした想像力ってとても大事なものだと思うんだよね。たとえば、花は人間の思考のひらめきを表していて、果実の実りは思考の物事の成就だと考えてみる。とすると、ミツバチは、人と人とをつなぐ愛情や善意の橋渡しをするキューピット的な意識の表れのようなイメージが湧いてくるよね。当然、人と人の心の間にも作物の実りというのがあるでしょ。皆で何かをやり遂げたときに覚える達成感なんかは、文字通り実りに対応するものだよね。だから、ミツバチの消滅は人と人をつないで行く善意とか良心といった、言わば天使的な身振りというものが人々の心の中から消えて行っていることの表れじゃないかってイメージなんかも浮かぶじゃない。

藤本
そう考えると、現在、地球上で起きているさまざまな生物種の絶滅というのは、人間の意識が持った思考や感情の様々な多様性が失われていっている状態と考えられるのかな?

半田
うん、ヌース的世界観ではそういうことになるね。もちろん、こんなこと言うと荒唐無稽と言って笑う人たちがいるかもしれないけど、ヌースの世界観が真実かどうかは別にして、僕らがそのくらいふくよかなイメージを持って自然環境を捉えることはとても大事なことのように思えるんだよね。

藤本
そうですよね。ただ、食物連鎖としてすべてが生きるためにつながっているとか、いろいろな動植物が共生し合って生きていると言っても、自然に対するイメージはさほど膨らみませんよね。単なるエネルギー循環やエネルギー補給のための食のイメージじゃ、何か味気ない。人間の心と自然が一体となって生きていると考えた方がはるかに有意義に感じますよね。

半田
確かに人間が生きるために食べ物は必須だけど、人はただ食物を食べて生きているわけじゃないからね。ただ「食」のみが満たされても生きてはいけない。それは僕ら飽食の現代人が一番知っていることじゃない。生きることにはもう一つメタな食生活が重なっていて、それはさっき言った霊長の食生活だと思うんだ。「神の食事」と言い換えてもいい。つまり、人間には想いを食べて生きている生き物が同居している。単に経済成長か環境保護か、とかいった二者択一の問題として環境問題を考えても、相変わらず物質中心主義の問題提起にすぎないよね。環境問題の本質に入っていくためには、自然自身を僕らの霊性の問題として考える必要があると思うんだ。環境が滅びて行く姿を、自らの想いの豊かな多様性がどんどん貧しくなっている様子と見て取れる感性。それを養わないとね。

藤本
そう考えると、地球というのが一つの巨大な魂の映し絵のように見えてきますね。

半田
全くその通りだと思うよ。ただ、地球意識なんか言っても現代人には、漠然としたおとぎ話に聞こえてしまうだろうから、それをなんとか科学的知性の延長でロジカルに理論化しようとしているのがヌース理論だと思っていい。地球は生きている。それは一つの生物というよりも、一つの精神として。僕らの想いの総体の姿なんだよね。

藤本
なんか心も地球につながっているような気がしてきました。今日からさっそく街路樹や野原や動物たちをヌースの目で見てみますね(笑)。どうも、面白い話ありがとうございました。

半田
「デイ・アフター・トゥモロー」が素晴らしい日々であることを祈りましょう!

投稿者 right : 14:30 | コメント (0) | トラックバック