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2007年11月 1日

デジャヴ

私たちは

「一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?」

『ヌースDEシネマ』は話題の映画をヌース理論の提唱者 半田広宣氏に独自の視点で解説していただきます。

第五回目の作品はトニー・スコット監督『デジャヴ』です。

デジャヴ

【作品紹介】
初めて体験する事象だが身に覚えがあるデジャヴ(=既視感)感覚をモチーフにしたサスペンスアクション。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズなどを手掛けた、敏腕プロデューサーとして知られるジェリー・ブラッカイマーが製作を担当、盟友トニー・スコット監督とコンビを組み、デジャヴを過去からの警告と解釈した大胆なドラマを作り上げた。
主演はオスカー俳優のデンゼル・ワシントン。
先の読めないスリリングな展開や未曾有のスケールで放たれるアクションなど、一級のエンタテインメントを満喫できる。

乗客の543名が死亡する悲惨なフェリー爆発事故が発生し、現場でひとりの女性の死体が発見されるが、捜査官のダグ・カーリン(デンゼル・ワシントン)は、どこか見覚えのある顔に思えてならなかった。
ダグはクレアというその女性と会うのは初めてだったが、彼女の部屋を調べるとダグの指紋をはじめ、さまざまな彼の痕跡(こんせき)が残されていた。
(シネマトゥデイ)より

藤本
この映画を簡単に説明すると、フェリーがテロリストによって爆発され、乗客543名が犠牲になる大事件が起こる。しかし、その捜査官の一人が、最新鋭の技術を駆使した過去を除き見る機械(タイムマシン)に自分を乗せて、時空を超え事件当日の事件前にタイムスリップをする。そして、事件を未然に防ぐという映画ですけど、以前から、このタイムスリップ映画って、日本でもそうですけど、沢山ありますよね。

半田
ハリウッドものだと、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が何と言っても一番有名かな。日本ものだと、ちょっと古いけど「戦国自衛隊」とか。あと、「時をかける少女」なんてのもあったね。

藤本
そうですね。ホントに沢山あります。さて、今回は『時間と空間』をヌース理論では、どのように考えるのかお聞きしたいと思います。科学の進歩が、凄く進んだとして、人間が本当に過去に行ったり未来に行ったりできるもなんでしょうか?

半田
ちょっとロマンを失わせるようで申し訳ないけど、ヌースの考え方から見るとタイムトラベルは難しいね。最初にタイムトラベルの発想を持ち出してきたのは確かジュール・ヴェルヌだよね。映画にもなってたけど、「タイムマシン」っていうSF小説があった。ヴェルヌの時代は近代の科学主義が全盛の頃だから、時間を旅行するっていうのは、とても物質科学的な発想に基づいていると言っていいんじゃないかな。つまり、時間を物質的にしか考えていない。でも、時間の本質は物質的じゃないと思うよ。

藤本
なるほど。今の時間認識は、物質的で時間の本質とは物質的ではないということですね。では、時間の本質とは、どんなものなのですか?

半田
もともと時空という考え方はアインシュタインから来たものだよね。普通、時空という空間3次元+時間1次元で時空4次元と考えられているんだけど、正確には時間と空間というのは渾然一体となっていて、「時空方向が4つ」という意味なんだよね。たとえば、僕らが月を見るとするでしょ。月までは空間にすると約38万Kmあるんだけど、それは同時に時間でもあって、約1.3秒ぐらい過去の月なんだ。だから夜空を眺めたとき、いろいろな星が見えるけど、遠くに見える星ほどそれは過去になっている。もちろん、これは科学の考え方だけど。

藤本
そうそう!夜空を眺めていると、いつも「この星は何千光年彼方の星で、何千年もの前の過去の光を今見てるんだなあ。」なんて感動しながら眺めてますけど、ヌース理論では、その時空の考え方が違うんですよね?

半田
うん、全然違う。全部「今」だよ。過去なんかじゃない。

藤本
全部「今」と言うのは、どう言うことですか?未来も過去も現在も...??

半田
物理学の時間の考え方というのは、とても空間的でね、一本矢印を引いて、ある一点を現在、つまり、0時刻とすると、マイナス側が過去で、プラス側が未来、そして、この0点が+側へ移動していってます。みたいな考え方なんだよね。これって何か変だと思わないかい。これだと、どの現在も何も変わらない、単なる目盛りの移動のようなものでしかなくなる。時間ってのはそんな空間的な移動のようなもんじゃないよ。だってそうだよね。人間が時間と呼ぶものには絶えず経験が付き添っている。一年前の今日と今日は同じ日付でも、そこにはこの一年間、苦悩したり、喜んだりしたことの経験が積み重なっている。その意味で、ほんとうの時間というのは人間の意識があって初めて存在しているもので、意識の外部に漠然と流れているものなんかじゃないってことなんだ。
で、僕が全部「今」って言ってるのは、例えば、藤本さんにも、二日前の自分と現在の自分を比べることができる自分がいるだろ。その自分は二日前も見えるし、現在も見ている。だから、それらを比べることができるわけだよね。あ?、あのとき、あの株買っておけばよかったとか(笑)。こうしたことを見ている藤本さんがいる場所は決して時間に沿って動いていない。つまり、時間を超えている訳だよ。僕はこうした時間を超えた場所のことを「今」って呼んでいるんだ。

藤本
時空を超えた場所って、意識の中の世界ですよね?意識の中では、現在も過去も未来も全てその中になるって考えられるってことですか?だから、全てが「今」だと言えるってことですか?

半田
簡単に言っちゃうとそういうことだけど(笑)、「今」というのは極めて特殊な場所だということが言いたいんだ。だって、時間には「今」しかないんだから。藤本さんが言うように、過去を想起するのも「今」だし、未来を思うのも「今」だよね。でも、この「今」はとても不思議な性格を持っていて、「今が今だ!!」と言ったときには、もうすでに時遅く、それはもう「今」ではなくなっている。これは、ちょうど、「これがわたしだ」とわたしを指し示していうときの状況にすごく似てるんだ。僕は普段、僕のことを「僕」って呼んでるけど、そう呼んだ瞬間、ほんとうの僕は逃げていってしまってる。というのも、そう呼んだのが「僕」なのだから、原理的に「僕」は「僕」のことを名指せないわけだ。「今」というのもそれと同じで、決して、時間の中では捕まえられない。それは常に時間から溢れたところにいる。こういう状況が実は物理学にもあってね、それは光速度のことをいうんだ。光速度というのは、物理学が成り立つための絶対の必要条件なんだけど、光速度状態では、永遠と瞬間が全く同じものになってしまう。つまり、「いつでも、今」になってしまうんだよね。だから、さっき、藤本さんが「この星は何千光年彼方の星で、何千年もの前の過去の光を今見てるんだなあ。」という言い方をしたけれども、確かに物理学的時間の中ではその通りだと思うけど、その星から放たれた光の立場になれば、それは全く時間は経過していないんだよ。で、この経過していない時間の立場に立っているものが藤本さんや僕という「意識ある人間」のことだと思っているんだ。だから、藤本さんは数千年前という場所をイメージできるわけだよね。まぁ、マクロの世界に対してはいろいろと言いたいことがあるんだけど、別の映画のときに話すかな。

藤本
うーん。言われてみれば、その通りですよね。『永遠と瞬間=光速度=経過していない時間=意識ある人間』。それは、人間の意識が関与していないと時間も光も存在しないと言うことですか?世界全体・宇宙までも存在しないと言うことでしょうか?

半田
まったく、その通り!!人間の意識がなければ時間もないし、光もない。宇宙だって存在しない。人間自身が光なんだよ。

藤本
うーんと、ややこしくなってきた!(笑)『光=人間自身』ですか?それって、どういうことですか?もう少し詳しくお話ください。

半田
光速度なんて言葉を聞くと、僕らはあたかも空間の中を光がぐんぐんと列車みたいに進んで行くイメージを持ってしまうよね。でも、光というのは、そういったものじゃない。光はモノのような対象じゃないんだよね。光とは見ることそのものなんだよ。さっき、藤本さんが何千光年彼方の星は、何千年もの前の過去の姿だって言ってたよね。当然、物理、つまり、モノの世界として考えると、それは遠くで、昔の過去なんだけど、僕らが見ている視野の中では手前も遠くも全部一緒になってるだろ。奥行きの世界がペッタンコになってなくなっている。これは4次元の距離がゼロになっているということなんだよね。つまり、何かを見ているということ自体が光速度の世界なんだ。だから、そこには時間をすべてに渡って見渡せる意識が発生してる。それが人間だよね。

藤本
ますますややこしくなってきた!確かに視野はいつも平面で、そこには距離感がないですね。一瞬にして全てを見ています。自分自身を含めて一体化してます。それが光であり見ることであり、見ることは自分自身の意識、すなわち自分自身ということですか?すごく大雑把に言って、『時空とは光であり人間の意識であり自分自身である。』ということですか?だから、自分自身がいないと宇宙が存在しないということになるんですね?

半田
ほんとうの「わたし」というのは、見ている世界側にいるということだよ。でも、僕らは肉体を自分だと思っている。それは人間である以上、仕方ないことのように思えるけど、これからは、この外側にいる自分が目覚めてくることになると思うよ。もともと肉体の中にいる自分というのは、鏡の中の像のようなものなんだ。神社とかに飾ってあるでしょ。ご神体としての鏡が。あれは、本当は他者の眼のことを意味しているんだ。外にいる世界自身としての「わたし」は、他者の目を通して肉体の中に宿ってくるんだよ。今まではその「他者の目に映し出された肉体」という、いわば鏡像を通して自我意識が働いていたけど、もうすぐこの鏡が開かれてくる。つまり、鏡像から実像が現れてくるわけだね。ほんとうの自分へと戻る時代がやってくるんだよ。そうなったら、鏡像同士で争っていた時代は終わりを告げる。皆が外側の世界が自分だと思うようになったら、人間はそれこそ、地球という一つの生き物に変わっていくよね。僕が2013年が新しい時代の始まりと言ってるのも、そういう意識がその時期から本格的に芽生えてくると考えているからなんだよね。世界は激変していく。それもいい方向にね。

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