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2009年6月25日

千と千尋の神隠し

人間は一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?
今回のヌースDEシネマは「千と千尋の神隠し」を題材に
ヌーソロジーの独自な視点で語っていただきます。

【作品紹介】
 10歳の少女、荻野千尋(おぎの ちひろ)はごく普通の女の子。夏のある日、両親と千尋は引越し先の町に向かう途中で森の中に迷い込み、そこで奇妙なトンネルを見つける。嫌な予感がした千尋は両親に「帰ろう」と縋るが、両親は好奇心からトンネルの中へと足を進めてしまう。仕方なく後を追いかける千尋。  出口の先に広がっていたのは、広大な草原の丘だった。地平線の向こうには冷たい青空が広がり、地面には古い家が埋まっていて瓦屋根が並んでいる。先へ進むと、誰もいないひっそりとした町があり、そこには食欲をそそる匂いが漂っていた。匂いをたどった両親は店を見つけ、断りもなしに勝手にそこに並ぶ見たこともない料理を食べ始めてしまう。それらの料理は神々の食物であったために両親は呪いを掛けられ、豚になってしまう。一人残された千尋はこの世界で出会った謎の少年ハクの助けで、両親を助けようと決心する。  千尋は八百万の神々が集う湯屋・「油屋(あぶらや)」の経営者、湯婆婆に雇用を願い出る。湯婆婆は千尋の名前を奪い、「千」という新しい名を与えた。千尋は油屋の下働きとして働きながら、様々な出来事に遭遇しつつも、ハクや同僚のリン、釜爺らの助けを借りて、懸命に立ち向かうことで自分も今まで気づかなかった内なる「生きる力」を発見する。(ウィキペディアより)
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藤本 今回の映画は、皆さん良くご存知の宮崎駿監督作品『千と千尋の神隠し』です。この物語は主人公の少女「千尋」が引越し先で、両親と一緒に異空間に迷い込んでしまう。そこには古い町並みがあり、その中に湯屋があった。お客様は八百万の神々、従業員は人間のような姿をした者たちで、湯屋を経営しているのが「湯婆婆」という魔女。「千尋」は、そこで働くことになるのだが、その時に「湯婆婆」から「千」という名前に変えられてしまいます。この映画の題名で『千と千尋の神隠し』とありますね。「千」と「千尋」は、二つの世界観を顕しているものですよね。

半田 自分のほんとうの名前を取り戻すというのがこの作品の重要なモチーフになっているよね。その意味で言えば、神隠しに合う前の千尋はまだほんとうの千尋になれていなかったのかもしれないね。まぁ、短い時系列ではあるのだけど、このストーリーは甘えん坊で、怖がりで、何をするにもびくついていた臆病で泣き虫の千尋が自分のほんとうの名前を思い出して、魂を自立させていくための成長の物語とも言えるだろうね。

藤本 そうですね。千尋は湯屋で下働きをしながら、色んな出会いがあり色んな出来事を体験する中でどんどん成長していきますね。湯婆婆は、従業員にはホントの名前を取り上げ、偽名をつけて働かせます。ここでは人間は毛嫌いされていて排除された存在です。お客様は八百万の神たち。宮崎駿監督の独特な世界が繰り広げられていますね。大自然を司る神々が、人間の世界におけるストレスを癒しに湯屋にやってくるという設定なんでしょうか?だから、そこに人間がいると神々は癒されないのかな?この物語には、人間と神との関係性も描かれていますよね。

半田 八百万の神というのは西欧風にいえば聖霊のことだね。自然はあますところなく聖霊たちで満たされている。しかし自然界はそうした聖霊たちの存在を知らない人間の欲得によって汚され、川の神さまも悪臭を放つ腐れ神になるほど疲れ果てよごれきっている。このへんは「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」などにも一貫して流れている宮崎監督の環境破壊に対する問題意識の表れでもあるね。名前を取り上げて本当の名前を忘れさせるというのも面白いよね。千は湯婆婆の下で労働させられるときの名前。千尋はほんとうの名前。これって僕の場合で言えば、子供のとき「ひろちゃん」とか愛称で呼ばれていたのが、学校や職場に入って出席番号や「半田」とか名字で他人行儀で呼ばれるのと何となく似てるよね。本当の自分は子供時代にいるんだけど、成長のために一度自分の名を単なる登録名のように変えられてしまう。人間が魂を成長させていくためには、一度、社会に登録されてそこで、もまれる必要があるということだね。千尋も千を通して成長していく。

藤本 千尋の成長は、人間の成長として描かれているのでしょうか?この世界には、人間は千尋しかいません。お父さんとお母さんは、黙って神様の食事を食べてしまったので、湯婆婆に豚にされてしまいました。千尋はわたしたち人間の代表でもありますね。現代は、地球環境のことがいつも話題になっています。川も海も山も宇宙までも・・・汚染されつくしてきました。汚れていく様をわたしたちは見ているのだけど、それが自分たちの勝手な欲望のなせる業だとほんとうに実感していない。それが今の人間なんですかね?だから八百万の神々=精霊=自然は、疲れきってしまって人間がいない湯屋に行って汚れをとり食事をとってまた戻っていく。この映画では、今の私たちの欲望をどう転換するのかがテーマではないかと思うのですが・・・?

半田 宮崎監督は自分が言いたいことに沿って、ユニークなキャラクターたちをいろいろと設定しているのだけど、こと「人間の欲望」ということに関して言えば【顔無し】のキャラ設定はとても重要だね。顔無しはおそらく自分の名前を取られてしまったどころか、代わりに与えられた名前までも失ってしまった魂の象徴なんだろうと思う。彼は懐から砂金をザクザク出すことができるのだけど、いつも「淋しい、淋しい」と言っている。そのくせ、自分の言う事を聞いてくれないとヒステリックに暴れ出してしまう。本来の自分の生をすべて犠牲にしてお金はたくさん稼いだけど、人とのつながりも、自分が生きているという実感もない。そのやり切れなさがついつい他人への過剰な期待や、愛情の強制的な要求へと走ってしまう。こんな人、藤本さんの周囲でもたまに見かけるでしょ。

藤本 欲望の対象がお金やモノになっている人。愛情を征服欲に転換している人は、たくさんいると思います。それを得ても本当は何にもならなくて、ただ虚しいだけで孤独を感じる。まさしく顔なしは、愛情をさえも金で買おうとする虚しく孤独な存在ですよね。千が欲しいんだけど、千は顔なしの差し出す砂金には目もくれない。そうなるともう何にもできなくなって暴れ周り、のた打ち回るしかない。欲望の対象が間違っているんですよね。ほんとうは何が欲しいのか?それは、どうしたら手に入れることが出来るのか?もっと深く考えなくてはいけないですよね。僕も少し顔なしになっているとこがあると思います。(笑)

半田 僕もたまになるよ(笑)。誰かの名前を心の中でつぶやくと、そこにその人の顔がすぐに浮かんでくるように、名と顔は本来一つに結ばれている。だけど、世の中の趨勢は人から名を奪い、顔さえも消すような方向で動いていないかい。もはや本人を証明するのはキャッシュカードの暗唱やパスワードでしょ。国民総背番号制というのだってある。その意味では合理性やスビードを重んじる資本主義の社会というのは顔無しを無数に生産していくような宿命を持っているんだよね。物事の価値が価格によって数量化されるように、人間の個別の生までもが数字やデータに変えられちゃう。ビジネスの世界はほんと顔無し地獄に落ち込ませようとする罠だらけだよ(笑)。

藤本 そう!つくづく感じます。僕も会社を経営して随分たつけど、銀行は藤本邦彦を信用してるんじゃなくて決算書を信用しています。取引するには年商や年収だとか利益だとかが重要になりますよ。いかに社会に役立っている企業なのか、地球環境や人のためにやっている事業なのかなどは、どうでもいいんですよね。「お金でしか人間の価値は計れないのか?」って思ってしまいますよ(笑)。でも、気がつくと自分も多かれ少なかれ顔なし化しているんですよね。決算書は気になります。気をつけなくては・・・(笑)。資本主義の象徴は、湯屋を経営している魔女の湯婆婆ですね。お金を儲けることしか頭になくて、利益を産まない従業員は生きている資格さえないと思っていますから。

半田 そうだね。湯婆婆は魔女だという設定だけど、まさにお金の力は魔力でしょ。欲望のエネルギーを使ってあらゆるものを作り出しちゃうからね。それと対照的なのが「沼の底」に住んでいる湯婆婆の双子の姉である銭婆(ゼニーバ)だ。容貌は湯婆婆と瓜二つなんだけど性格や気性が正反対。森の中でひっそりと一人暮らしをしている。「魔法で作ったんじゃ何もならないからね」という台詞に込められているように、この銭婆はクッキー作りとか、編み物とか、普通に考えれば何てことのない日常性を最も大事にしている。僕の言い方をすると「子供の風景、女の風景」だね。ここでは皆が名前を持つことができて、ねずみに変えられた坊(湯婆婆の赤ちゃん)も、行く所がなくてついてきた顔無しも、みんな楽しく椅子に座ってお手伝いしていたよね。資本主義が失った物作りのほんとうの風景やコミュニケーションがここにはある。わがまま放題だった坊も、不気味だった顔無しも、こうした時間の中でどことなく変わっていったよね。

藤本 お金と交換するためのモノ作りではなく、何のために誰のためにモノを作るのかを現代は忘れてしまっているんですかね。顔なしも坊も、ここにはお金もオモチャもないけれど、銭婆の編み物作りを無邪気に楽しく手伝っているシーンがありました。本来の自分と向き合うことができた。ホントの楽しさ・幸せを感じたんだと思います。お金ではけっして買えないものを銭婆は教えてくれたんですね。

半田 そうだね。僕らも今一度、子供のころの風景を思い出さないといけないね。

藤本 最後にハクのことについてお聞かせください。ハクは本名を忘れていて自分が何者か思い出せない状態ですが、千尋と初めて会ったときから、記憶の中で千尋を知っていました。そして人間である千尋を助けてきました。ハクは魔法使いになるために湯婆婆の弟子になっています。ハクは湯婆婆の命令で、銭婆から労働契約書に押してある印鑑を盗みますが、湯婆婆には渡さないで飲み込んでしまう。印鑑に封印されている魔術で、ハクは命を落としそうになるが、千尋がくされ神からもらった団子をハクに飲ませて命を救います。そして印鑑を返すために銭婆のところに行くんですよね。ハクはなぜ魔法使いになりたかったんでしょうか?

半田 ハクは最後に自分が何者であったかを思い出すよね。確か「ニギハミコハクヌシ」が本名で、琥珀川の主とかなんとか。おそらくこの名前は日本神話に出てくるニギハヤヒノミコトから取ってきてると思うんだけど、ハクというのは「珀」であり、この「珀」は白い王という意味で「皇」のことでもあると思うんだ。つまり、生まれたての純粋な神のことだ。魂を支えている純粋なエネルギーとでもいうのかな。しかし、このエネルギーはまだ幼いので自分自身の役割というものが分からず、湯婆婆の手伝いをしてしまう。さっきの文脈で言えば、人間の物質的な欲望の力の片棒を担いでしまうということだ。これが「魔法使いになりたかった」という設定として表現されているんじゃないかな。でも、千尋と再会して、自分自身の名を取り戻し、自分の使命に目覚めた。この映画では具体的には描かれなかったけど、目覚めたハクとしてのあの白い龍は、人間の意識の奥底に眠っている、まさにヌースを象徴したものだと思うな。ちょっと手前味噌すぎたかな(笑)。

藤本 なるほど。ハクは、川の神様だったんですよね。千尋が川に靴を落とし、取ろうとして川に落ちておぼれてしまう。ハクはそれを助けた。その記憶は千尋の記憶の中にもあり、ハクと一緒に空を飛んでいる時に思い出すんですよね。その川は、現在街ができていて無くなっている。千尋は元の世界に戻っていくけど、ハクは、その後どうなっていくんでしょうか?ストーリーの中には描かれていませんが、自分の使命に目覚めて、何をしようと思っているのですかね?

半田 これは穿った想像だけど、ひょっとすると宮崎監督は『千と千尋パート2』を作るかもしれないね。そこで千尋とハクとの関係がはっきりとするかも。うーん、でもなんだなぁ。そこをボカしているからこそ、作品に深みが出ているのかもしれないね。今の藤本さんの問いに関しては、この記事を読んでいる人たちがそれぞれ考えるってことでいいんじゃないでしょうか(笑)。

藤本 そうですね。僕なら、ハクが自分を取り戻した後、湯婆婆の元を去って新しい世界を築いていく。そこでまた千尋と再会するっていう物語を描きたいですね。

半田 人間の幼年時代の中には宇宙と理屈抜きでつながれる純粋な魂が眠っている。でも、その眠れる魂を目覚めさせるためには、人間は一度、社会に出て、名前を忘れ、金を稼ぎ、物質の中に溺れ、魂を精錬させる必要がある。そうしたプロセスを一巡りして、魂が、再び自分の中の幼年時代に出会ったとき、魂は全く違ったものへと姿を変える。千尋とハクが今度出会う時は、きっと、千尋は自分がハク自身だったことを思い出すことになるんじゃないかな。文字通り、白い王たる「皇」としての自分をね。人間の魂というものはすべて創造の種子なんだよ。

投稿者 right : 12:07 | コメント (0) | トラックバック